『あのひととここだけのおしゃべり』よしながふみ
2007.10.11(Thu)
ツラい合宿が終わって、次のレジュメをそろそろやらなきゃなんて思ってたら
例年より中間報告の日程が早くなったと連絡
……どないしよ

……どないもならんけど


とかいいつつ、大人数家ご飯をやったり、外ご飯やったり
河原でワイン(サングリア)やったり、ボーリングやったり、結構しっかり遊んでる

映画もたくさん観てるから忘れないうちに書いておきたいんだけどな……



よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり
よしなが ふみ (2007/10/04)
太田出版

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読み終わったので覚書

やまだないと×福田里香×よしながふみ


福田 男の子の(注:エロ)マンガは、かわいい女の子がいれば、自分は描いてなくても感情移入はできるんだよね。いなくていいの。触手でいいの。
やまだ (笑)
福田 でも女の子の場合は、ものすごく細かく決まってるじゃない。相手が身長が187センチぐらいで、メガネじゃないのかメガネなのか、髪の毛は黒いのか白いのか、で、学歴とかプロフィールが決まっている、マンガのなかで。少女マンガもそうだけど、BLも、まずはじめにプロフィールが全部出てくるよね。(: 24)

 

志村貴子×よしながふみ


よしなが 男性と女性とでは、萌えに関して大きく違いますよね。女性の萌えは、関係性に萌える。
志村 男性は、属性に萌えますよね。単体のキャラに萌える。
よしなが そうですね。私は主従下克上が好きなんですが、主が必ずこういうキャラでないとダメ、というような決まりは私の中にはないですもん。キレ者の主だろうが無能な主だろうが、そんなことはいいんです。大事なのは主従という関係なんだから。(: 252)



・二次創作の「やおい」では、結構、触手モノは見るのだけど、もちろんそれは、男性向けの触手とは違う構造を持っている。「かわいい女の子がいれば」自分は「いなくていい」というのは、男性向けの場合、女の子キャラ×男性読者という一対一の構造のため、男性キャラが書き込まれる必要がないから(森岡正博の「自閉した欲望回路」文脈では異論が出る?)。
・「男性=属性萌え/女性=関係性萌え」という言葉は同意。
・受け攻めがどのような「関係」であるかが重要なヤオイにとって、細かなキャラの設定が大切なのは当然(でも「関係」が先で後でキャラがくるっていうよしながが言っているタイプと、キャラが先にきてその後で「関係」がくるタイプがあると思う。そもそもよしながもリョータに萌えて小暮をあてたって発言してるし。となると、オリジナルと二次を一緒に語ることが難しいのか?)

三浦しをん×よしながふみ


よしなが (市川ジュン『陽の末裔』に)立場の違った二人が登場するんですが、この二人が、互いを本当に理解し合える相手ではないとわかっていながら、どちらかが窮地に陥ると必ず片方が助けるんです。志を同じくはしないけれど、助け合うこともある。もうね、やおいなの(笑)。私は女性同士でもこういう間柄は”百合”だとは思わないんです。価値観の違う者同士、でも相手を認めているその関係は、女性同士であっても、私にとってはやおいなんですよ。(: 153)



・ライバルであり同士(バディ)でもある関係が「ヤオイ」だとよしながは言っているのだけれど、そういう「対等な関係性」はヤオイの一つの要素であって、ヤオイを定義するものではないんじゃないだろうか。ヤオイには「男同士」という大前提があるし、ヤオイ好きの女子が女同士の対等な関係の物語にも萌えるなら、なぜ、男同士の話しか書かれないのかって疑問が残る。ヘテロセクシズムの内面化?そこで落とすと、見逃してしまうものがいっぱいあるような気がする。
・身も蓋もないけれど、「男」が好きなんだよ、きっと。その「男」ってのが幻想、イメージであることがポイントなんだと思う。イデアっていうか……。それに対して「女」は自分自身の身体がそうだし、社会的に「女」であることを要請されているのだから幻想を抱くことが難しいし、抱きたいと思わないんじゃないだろうか。「男」っていう未知の領域で遊ぶ楽しさなんだと思う。



楽しく読めたやおい論ではあったけれど、若干のモニョりもあった
もう少ししたら感想とか出てくるかな
そっちの方が楽しみだ



『シュミじゃないんだ』三浦しをん
2007.08.14(Tue)
シュミじゃないんだ シュミじゃないんだ
三浦 しをん (2006/10)
新書館

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あまりに暑さに図書館に行き、あっという間に読了

気になった箇所を抜き書き


たぶん一九八〇年ごろまでは、「純愛」の末に二人は結ばれました、おしまい。で、物語は完結し、少女漫画読者は満足していたのだ。ところがそのうち、「私はこれでは満足できない。二人が互いに寄せる気持ちを確認しあった、その先を読みたい」と思うひとが増えてきた(: 30-31)


 三浦の指摘する1980年という年代が正確なのかどうかは分からない。しかし、少女マンガが「恋愛の成就」までを描くものであり、そこに至る過程に生じる「どうしてあのひとを愛してしまったんだろう」、「あのひとを愛する私は、どうしてこの世界に存在することになったんだろう」という疑問、すなわち「ひたむきに己の内部を探っていたもの」(: 32)が同時に描かれていたという点は頷ける。
 そして、「いまや、伝統的な少女漫画のテイスト(切なさとかトキメキとか繊細な心理描写とか)を一番色濃く継承しているのは、現在の少女漫画ではなく」(: 33)BLであるという考察に、留保をつけつつ頷く。

 少女マンガが「恋愛の成就」までを描いていたのは、「恋愛」自体が「憧れの対象」になっていたからではないだろうか。「自分探し」的なものは、少女マンガのメインとなるテーマではなく、「恋愛」に付随して描かれていたように思える。だとすれば今もその形は変わっていないのかもしれない。
 「恋愛」が「憧れの対象」であることは、きっと、今もそうなのだと思う。今の少女マンガだって「恋愛」で埋め尽くされているし、レディースコミックだって「恋愛」抜きでは描けないだろう。

 異なるのは、「恋愛」と「セックス」が深く繋がっているということを読者が知り、その物語を求めるようになったということではないだろうか。
 昔は「恋愛」と「セックス」が別だと考えられていたと言いたいわけではない。ただ、少女マンガにおいて、「セックス」は「恋愛」の延長線上にあるものであり、だからこそ、「恋愛の成就」が描かれれば物語が「終わり」を迎えることが出来たのだ、ということを強調したいのだ。

 一方、BLは「恋愛の成就」、または「恋愛の成就」と「成就後」を描くものである。BLは性描写が多い。


心の交流や葛藤とともにあるセックス。そういうHでなければ、そこに幸せも満足も喜びも苦しみも生じうるはずがない、ということをよく知っているからだ(:55)


 BLが「心の交流のあるセックスシーン」を求めているのか、「セックスシーンに心の交流」を求めているのか、読者や作者にとって大きな違いがあると思う。だがこの点は、BLのエロティックな描写をどう考えるかという時のヒントになると思う。
『リバーズ・エッジ』と『菜摘ひかるの私はカメになりたい』
2007.08.12(Sun)
リバーズ・エッジ (Wonderland comics) リバーズ・エッジ (Wonderland comics)
岡崎 京子 (2000/01)
宝島社

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Zのお兄ちゃんの本棚にあったので何年かぶりに読み返した

たぶんリアルタイムで読んでいたと思うのだが
あまり内容を覚えていなかった

マンガ論で必ず出てくる作品だし
岡崎京子は、好きなタイプの作家だ
それなのに私の記憶に残っていなくて、実物が手元にないということは
「繰り返し読むことはないだろう」と思い売ったのだと思う

私は80年代に青春を過ごした
『リバーズ・エッジ』の世界は、たぶん、その少し後の世界
そのズレが居心地悪かったのだと思う
たかが5年程度のズレ
だけどそのズレはとても大きいのだ

最初に読んだ時から10年以上過ぎているのだけど
ズレはまだ私の中にあった
ある部分では過ぎ去ってしまった時代の話だと思えるのに
ある部分では未だにすわりの悪さを感じてしまう

消えたものは何で、残っているものは何なのだろう



今は論文のこともあってセックスシーンばかりに気を取られてしまうのだけど
ハルナのソレは、かなり考えさせられた
早く体験したいという理由でしたセックス
BFがパニック状態になった時に受け入れた強姦まがいのセックス
ハルナを想う女の子と一緒にベッドにいる時に、自分の欲望を感じるハルナ
BFとヤりたい訳でなくヤってるはずなのに、
自分の身体が欲情していることを不思議に思っているハルナ
好きな男の子に対しては、一度も欲情しないハルナ

ハルナにとってセックスって何なのだろう


菜摘ひかるは彼女にとってのセックスをこう表現していた


なぜなら男の性の対象にされることでしか自分の価値を計れないわたしにとって、
この身に性欲を感じてくれる人がいるというのは、
なによりも嬉しく、感謝して止まないことだからだ。(2001: 16-17)



男に性の対象として見られることに憤りを感じつつ
まったくそう見られないことを不安に思い
自分の身体が男をなだめたり甘えさせるのに役立つことが嬉しく
けれど自分の身体だけがその役割を果たすのではないことも知っている
自分の欲情が何に向かって開かれ
何に対して閉じているのか、自分で解らない

それが私にとってのセックスの、ある一面だ


菜摘ひかるの私はカメになりたい (角川文庫) 菜摘ひかるの私はカメになりたい (角川文庫)
菜摘 ひかる (2001/12)
角川書店

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『性と愛の日本語講座』
2007.07.11(Wed)
性と愛の日本語講座 (ちくま新書) 性と愛の日本語講座 (ちくま新書)
小谷野 敦 (2003/06)
筑摩書房

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性と愛にまつわる言葉の歴史、変遷を追ったもの。幅広い資料を用いていて「分かりやすい」。分析手法として、私が目標とするものに近い。

が、「性と愛」に関する著者の思想・価値観があまりに偏っているために、肝心な「言葉」の分析までが恣意的なものに感じられてしまうのだ。

例えば


 私のまわりには、インテリで、経済的にも自立している、または自立する見込みでいる女性というのは多い。そういう女性と恋愛関係にあったり結婚したりする男も多い。けれど、やっぱり彼女らは、「愛情確認」をするのであり、男の愛情が足りないとか、やっぱり釣った魚に餌はやらないのか、とか、言うのである(p85)



ここには、経済的に自立した女性が「愛情確認」をするのはおかしいという前提がある。
なぜこのような前提がなされるのか。

引用箇所に続き、「セックスをする時、女は何か「価値」のあるものを与えるのであり、その見返りとしての「愛情表現」を繰り返し求める」(p85)と述べられている。
女の「カラダ」には特別な「価値」があり、それを男に差し出す見返りとして「経済的な支え」が女によって求められる――という前提がまずあり、よって、著者の中で「愛情表現」と「経済的な支え」がイコールで結ばれているのだ。


 「女の貞操」が「財」であるというのは、フェミニズム理論的に言えば、家父長制的概念である。つまり女の「カラダ」はまず父親の所有であり、後に「オトコ」に譲与される、というのが家父長制なのである。だから、「フェミニスト」を名乗るような女は、間違っても「愛情確認」などしてはいけないのであえる。(p86)



著者にとっては整合性のあるロジックなのかもしれない。しかし、経済的に自立した女性が「愛情表現」を求めることは間違っている、という結論にいたるまで、いくつもの「〜である」が前提とされているのだ。この前提を共有できないものは、どれだけ仮説や考察を積み重ねられても、納得することはできないだろう。

もちろん、この本のテーマはフェミニストが「愛情確認」を求めることの是非ではないし、引用した箇所は趣旨からすれば瑣末なものといえるだろう。
しかし、「〜である」ということこそを、研究者は批判的に考察するべきではないのか。そうした「実証的研究」として本書が書かれたのではなかったのだろうか。


私は、たぶん、フェミニストではない。けれど、こうした「フェミニズムのようなもの」「フェミニストのようなもの」が書かれた文章を見ると、「それはフェミニズムでもフェミニストでもない」と言いたくなってしまう。
私のようなフェミニズムに愛憎半ばする思いを持つひとは多いだろうから、そういうタイプの人間をフェミ側に引き寄せるには、こういう文章は有効なのかもしれないなぁ、なんて思った。




『「レズビアン」という生き方―キリスト教の異性愛主義を問う 』
2007.07.10(Tue)
「レズビアン」という生き方―キリスト教の異性愛主義を問う 「レズビアン」という生き方―キリスト教の異性愛主義を問う
堀江 有里 (2006/10)
新教出版社

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重版が決まったらしい
嬉しくて、すぐにメールをする
いろんな思いがあるのだろうけれど
私は素直に「おめでとう」と言いたかった



昨日のゼミは「なんだかなぁ」だった
確かに私の視野が狭くなっていたのだけど
しかし……

「ポルノグラフィ」「性的欲望」という概念、言葉を拡大したい・境界を曖昧にしたいという目的のために
「ポルノグラフィ」「性的欲望」という言葉を用いなければななないことによって生じる齟齬

これがネックなのか

うーん、どうすればいいのかなぁ
『執事の分際』
2007.07.05(Thu)
執事の分際 執事の分際
よしなが ふみ (2005/11/15)
白泉社

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同人作品収録ということで購入
ストーリーは知ってるし、シーンだって覚えている
台詞だって記憶にあった
なのに……また泣いてしまった

よしながふみのような作風が、決してBLの主流ではないことは分かっている
でも、彼女の作品には「ヤオイの心」のようなものがあると思うのだ
その「心」があって、そのうえでエロエロやテンプレ作品が楽しめるんじゃないだろうか?

そう思いたいだけなのかもしれないけれど……


ああ主よ
この喜びをどうやってあなたに
感謝すればいいのでしょうか……!



このシーンは、「ベルばら」の例のシーン並みに胸を打つ


夜のピクニック
2007.07.01(Sun)
Sちゃんに誘ってもらって夜の川でピクニック
鶏とインゲンのマスタードあえ
ニラと薄揚げとタマネギのおかかあえ
なぞ用意して、いそいそと出かける

が、しかし、そこはいつもの静かな川ではなかったのだった
騒々しくてまるで街中みたいなうるささ
酔っぱらいに花火に大音量でかけられる音楽
……残念でした

雲の切れ間から時々顔を出す月は
びっくりするくらい明るくてまん丸だった
そっかぁ水無月だったのね
来年はふたばで水無月買って食べるぞ





ブスの開き直り ブスの開き直り
北原 みのり (2004/09)
新水社

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なんだろうな、このモニョった読後感は

私のフェミに対する愛憎半ばした思いがこの本にもあるんだと思う
基本的なことには同意できる
だけど、「そうじゃないんじゃない?」って箇所があからさまではなく、うっすらとある
そこを言葉にしたいのだけれど、難しい

フェミって実体があるようでないのだ
「こういう風にフェミは言ってるじゃないか」と言えば
「そう考えるフェミもいるだろが、違うフェミも多い」と返ってくること、しばしば

もちろん、一枚岩的なものではないのは分かっているが
どうも「私には関係ない」と他人事を決め込んでるように思えるのだ

叩く方もきっちり検証しなきゃ駄目なのはもちろんだけど
(内田樹的叩きが多すぎるんだもの)